親ガチャと努力
よく論争になる、努力は報われるかと親ガチャ。
おそらく同じ層が論争していて、「努力は報われない=親ガチャや環境によって覆せない差がある。」層と「親の差はあれど努力によってはその差を覆せる」という層がいるのだと思います。
一般的に前者は環境的に報われず、なかなか成果に結びつかなかった人達の意見であり、後者は社会的に成功している層が主張している傾向があると思います。
また、社会的に成功している層の主張に対する反論として、親がよかったや環境がよかったと主張するのが親ガチャ肯定層であり、
逆に親ガチャ層に対しては、努力が足りないというのが努力層の主張の様に思います。
ちなみに私は多分に漏れず努力は報われると思っています。私の家庭は裕福ではなかったですが、特別貧乏でもなく、両親も不仲でもなく、一般的な勉強量で旧帝大に合格することができ知識層と呼ばれる身分にいるので、まぁ親ガチャとしては成功しているのでしょう。
今回はなぜこの「努力は報われる、報われない」論争が平行線を辿るのかを考察したいと思います。
要素はたった二つです。「努力」、そして「報われる」です。
いろんな意見を見てみると、努力の部分に関する論争が多いとは思います。
よくある論争が努力を努力と思わない、努力できることが才能などの言葉は耳にします。また、努力が足りないとか、親ガチャ関係なく努力は誰でもできるなどが主な論点ですが、私が思うに実はこの部分の認識はどちらの層でもほぼ一致していると思います。
問題は「報われる」の方だと思います。努力という名詞に対して、報われるは動詞、しかも受動態です。
努力の中身に関しては例えば受験勉強やスポーツの練習、副業に関する活動であったりと具体的な事柄を列挙することができますが、報われるの中身は・・・。
実はこの認識のずれが「努力は報われる」の論争を平行線にしている原因であると考えます。
つまり、努力は報われないという層は他人と比べた自分の相対的位置を言及していることが多いのに対し、
努力が報われるという層は努力前後の自分との比較して発現していることが多いと思います。
つまり努力が報われないという層は「今からいくら野球を練習しても、大谷翔平にはなれない = 努力は報われない」と主張するのに対し、「大谷翔平も練習(努力)して今の地位にいるのだから、努力は無駄ではない(努力前の大谷より努力後の大谷の方が進歩がある)」という主張をしています。
当然、私も親ガチャに多少恵まれたからといって、全く勉強せずに今の地位にいるわけではないですし、私より若くて才能に溢れている人達を山ほどみて、どれほど羨ましく思ったか。いまでも嫉妬に絶えません。
でも他人が優れているから自分が怠けるというロジックは成り立ちません。
他人に関係なく、昨日の自分より進歩するために日々いろいろな活動を行っているのです。
なので、他人と比べると努力は報われないという論理は確かに成り立ちますし、過去の自分と比較するとどんな小さな努力でも報われることになります。
このような「報われる」にかかる認識の違いがこの議論を平行線にしており、が努力層と親ガチャ層を分けるのではないかと考えて、この様な記事を書いてみました。
自分自身は努力(目標に対して必要な訓練をすること)が比較的叶えられた人生を歩んできたので、努力が報われると思っていますが、少し立場が変わればまた違う意見を持っていたかもしれません。
ただし、基本敵には周囲の優秀な人よりも自分は劣っていて、キャリアも中途半端な医者になって、博士課程も40手前とるなんて、なんてクソみたいな人生なんだと思っています。某ミニ肝臓の教授は自分より年下で、自分が医学部に編入した年に教授になってましたらからね。かたや教授、かたやこれから学生。どうしてこんなに差がついてしまったんだと本気で落ち込みました。
ただ、どんなに自分に能力がないと思っていても、一つだけ心に言い聞かせていることがあります。
それは「マラソン選手も苦しい」ということです。
1kmを3分で走り、42kmを2時間ちょっとで走り抜ける選手たち、かたや1kmを5分ペースで走るのがやっとの自分、才能の差は歴然ですが、苦しさはおそらく同じだと思っています。同じ2時間で走れる距離こそ違いますが、どちらもその時出せる全力で走っているだけです。
そう思って、遅くても苦しくても才能がなくても、決して優秀な人も楽な訳ではない、と言い聞かせて、昨日の自分より少しでも進歩できる様に日々を過ごしています。
もし、努力が報われないなぁと悩んでいる人に、少しでもモチベーションになることができたら嬉しく思います。